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时间:2019-02-25
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1、日本の英語教育プロローグ日本の英学史や英語教育史を振り返ると、何を英語教育とするかで先ず議論の分かれるところであろうが、1808年のフェートン号事件により、江戸幕府は英語の必要性を強く感じ、1814年に『諳厄利亜語林大成』の編纂に務めた。その後、1853年にはペリーが来航し、日本の鎖国政策が打ち破られ、明治維新へとつながった。外国語の考え方が、まずは漢語を除けば、江戸時代は、蘭語が日本にとっては国際語という考え方になる。蘭語を通していわゆる外国を知るといった具合である。日本にとって外国語の中心が蘭語から英語へ、そして、国際社会におけるイギリス、アメリカの台頭と
2、英語との関係は切り離して考えることはできない。明治維新後は1872年の学制頒布、1886年に学校令公布、1890年に教育勅語発布。戦後になってからは、1947年には教育基本法、学校教育法が公布。新制中学校が発足すると、義務教育で英語が導入されるようになり、『学習指導要領英語編(試案)』も作成された。国際関係はもとより日本の国内状況等、時代背景をとらえながら、英語公用論を意識しながら日本の英語教育の今後についても考察していきたい。119世紀の日本の英語教育――明治維新以前を中心に日本の英語教育を考える前に、日本の外国語教育史についてふれておきたい。しかし、ここで
3、は漢語を除くものとし、いわゆる洋学が蘭語から英語へと移り変わっていくあたりを重視していきたい。19世紀以前の日本の英語教育を考える前に、日英交流史や日米交流史を考察しながら、まずは「日本と英語」の関係史について触れておきたい。江戸時代には「日本政府」という考え方がないので、江戸幕府が打ち出す政策がおおきな影響を及ぼすこととなる。一般的に日英交渉史は1600年にリーフデ号が現在の大分県に漂着したことに始まる。同船の水先案内人であったウィリアム・アダムズ(WilliamAdams,1564-1620)が20年にわたって徳川家康・秀忠のいわゆる外交顧問を務めた。その
4、間にイギリス国王ジェイムズ一世(JamesI,1566-1625)の国書を日本語に翻訳、家康の返書を英訳したと言われてい(1)る。このことは日本と英語の歴史を考える上で、その第1歩となる。1639年に鎖国が完成されると、オランダと中国(清)を除く外国とは国交を断絶したことになる。これにより、漢語を除けば、必然的には蘭語(オランダ語)が国際語ということなる。幕府が外国語に限らず学問等に統制をかける契機となったのは、天明の大飢饉である。低下した幕府の指導力を取り戻すために、老中松平定信は1790年に寛政の改革を行った。その中の学問統制が寛政異学の禁である。儒学のう
5、ち、農業と上下関係の秩序を重視した朱子学を正学としたのである。尾藤二洲(1745-1813)が寛政異学の禁を主唱し、松平定信の教学方針に多大なる影響を及ぼしたのである。1797年には昌平坂学問所が幕府の直轄になった。さて、国内で江戸幕府がどういう政策をとろうが、外国船は次ぎ次ぎと日本にやって来るのである。蘭語(外国語)を知るというよりは、蘭語を中心にして洋学への関心が高まったと言える。幕府に英語(イギリス)を意識させたのが、1808年のフェートン号事件である。これはオランダ(2)船を装ってイギリス軍艦フェートン号が長崎に入港したものである。この事件は、すでにヨ
6、ーロッパでのオランダの国力が低下していたことが関係している。鎖国とは「幕府が情報を独占し、貿易を一元的に管理(3)する体制のこと」で、その幕府の情報源がオランダであったのだ。従って、オランダからの情報をもとに幕府は外交政策を決めていくことになった。しかし、この事件を契機にイギリスの台頭を知るようになった幕府は、英語の必要性を感じることとなり、翌年の2月より蘭学通詞6名に英語学習を命じた。その後、2名、6名と追加されたが、結局は蘭学通詞全員に英語とロシア語の学習が命じられることとなったのである。指導者にはアイルランドの英国陸軍に勤務し経験のある、オランダ商館副商
7、館長として赴任してきたブロムホフ(JohnCockBlomhoff,1779-1853)がオランダ商館長から推薦された。その後、1811年に本木正栄を中心とする長崎通詞の努力により、英単語や会話文を所収した『諳厄利亜興学小筌』、1814年に日本で最初の英和辞典『諳厄利亜語林大成』が発表されたのである。1840年にはリンドレイ・マリ(LindleyMurray,1745-1826)のEnglishGrammar(1794)のオランダ語からの重訳を渋川2敬直(六蔵)訳『英文鑑』が刊行され、1856年に幕府の洋学所を蕃書調所と改めて、蘭学を主として英学を副とした教育
8、機関としての機能を持つようになった。当
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