敦煌の古墓群と出土鎮墓文

敦煌の古墓群と出土鎮墓文

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1、敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)關尾史郎は じ め に死者の鎮魂を目的として陶器の器腹に墨書または栄吉され、墓中に埋納されく..1)た鎮墓文は、後漢時代に長安や洛陽周辺で出現したが、やがて3世紀も後半になると敦煌まで普及し、5世紀前半に至るまでこの地でも多くの鎮墓文が作成され、そして埋納された。王朝で言えば、西晋から「五胡十六国」(以下、「五胡」と略記)にかけてのことである。説明するまでもなく、このような本質からして、鎮墓文は当時の人々の冥界観を端的に表現した文章であり、敦煌で出土したそれについても、かかる観点から町田隆吉により検討が行われている【町(2)田198

2、6】。またその文章の目頭には通常、紀年(被葬者の死亡年月日)と被葬者の姓名などが記されており、出土した地域の政治的な動向や社会構造の一端(3)を解明するためにも有用である。さらに言えば、中国世界の西北地域からは、敦煌以外でも鎮墓文が出土しており、それらを総合的に比較することにより、出土地ごとの鎮墓文の特徴はもとより、出土地自体の特質にも迫ることができ(4)るのではないだろうか。(1)後漠時代の鎮墓文に関する理解は、江優子の成果【江2003】に負っている。なお具体例については、渡部武【渡部(編)1999】や劉昭瑞【劉2001】などを参照されたい。(2)中国では、妻

3、伯勤が道教に関わらせて言及しているほか【妻1996:270-280】、近年、張勲僚と自彬が、やはり道教研究の一環として、敦煌をはじめとする西北地域で出土した鎮墓文をほぼ網羅的に紹介している【張・自2006:363-544】。(3)かかる観点から私も紀年に注目し、そこに用いられている元号を手がかりにしながら、「五胡」時代の国際関係について検討の機会をもった【關尾1985】。また陳囲燦は、被葬者の本貫記載を手がかりとしながら、敦煌における郷里制について検討している【陳1989:40(陳2002:363-364)】。(4)この点については、既に大まかな見通Lを示Lたこ

4、とがある【關尾2004】。またそのための基礎作業として、西北地域から出土Lた鎮墓文に関する情報も整理した【關尾(編)2005】。- ノ5 -本稿ではそのような課題に向けた基礎作業の一環として、敦燈出土の鎮墓文について初歩的な検討を行うものだが、最初に、鎮墓文が出土した墓葬を含む古墓群とそれに対する発掘調査の経過を整理し、墓葬の状況についても簡単に見ておきたい。発掘調査の経過を整理するのは、敦燈一帯では頻繁に発掘調査が行われてきたにもかかわらず、その詳細についてはまとまった記述がほとんどないからであり、墓葬の状況を問題にするのは、そこから鎮墓文を作成された死者すな

5、わち被葬者の社会的な地位をうかがいしることができると考えるか(5)らである。1.発掘調査の経過敦塩市街の東郊、新店台古墓群(DXM)と悌爺廟湾古墓群(DFM)は、あわせると東西20キロ・南北5キロに及ぶ広大な規模をほこり、万単位に上る漠唐間の墓葬が点在しているとされる。両古墓群の発掘調査の歴史は、日中戦争中の1944年までさかのぼることができるが、1970年代になると、両古墓群とは市街をはさんで反対側、すなわち西郊の祁家湾古墓群(DQM)に対しても発掘調査が行われるようになった。この古墓群も総面積が100平方キロに及ぶ広大なもので、やはり漠から唐に至る万単位の墓

6、葬からなっているという。すなわち敦燈では、市街をはさんで東西2つの大型墓地が同時に造営されていたわけだが,鎮墓文はこの両古墓群から等しく出土している。そこでここでは,新店台・悌爺廟湾の両古墓群(以下、「東郊墓」と略記)と、祁家湾古墓(5)なお本稿は、井上徳子氏(元京都大学研修員)と共著の論文「敦塩西晋・十六国墓初探」の成果を一部取り入れてある。この論文は、1995年9月に楊富学氏(敦塩研究院)から『段文傑敦塩研究五十年紀念文集』(北京:世界図書出版公司、1996年)-の寄稿を請われた開尾が、井上氏との討論の結果をふまえてまとめたものである。1996年5月に書き上

7、げて、当時大阪市立大学大学院に在籍中だった陳力氏(硯阪南大学国際コミュニケーション学部)に漢訳していただき、楊氏のもとに送り届けた。しかしすでに締切を過ぎていたということで、楊氏からは,予定を変更して『北京図書館館刊』(当時)に掲載する旨の返信をいただいた。けれどもその後、楊氏からはなんの連絡もなく、人を介して楊氏に問い合わせてみたが、要領を得るような返答は残念ながら返って来なかった。そのようなしだいなので、あるいは中国国内の学術雑誌上ですでに公表されているのかもしれないが、原著者である私たちは把握できていない。16--秤(以下、「西郊墓」)とに対する発掘調査の

8、経過について、それぞれ簡

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