原子核実験施设创设50周年寄

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时间:2019-02-27

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1、3原子核実験施設創設50周年に寄せて原子核実験施設創設50周年記念、おめでとうございます。一つの目的のために作られた実験施設がこれほど長く続いたというのは全国的にも珍しいのではないでしょうか。昨今の学問・技術の急速な発展を見るに付け、空前ではないにしてもおそらく絶後になるのではないかと思う次第です。これはひとえに、菊池正士先生をはじめとする大阪大学の先駆的原子核研究者が築かれた輝かしい伝統があってこそと思われますが、同時に引き続く代々の原子核実験施設の先生方が、その伝統をはずかしめないだけの立派な

2、研究水準を維持してきたお陰とも言えるでしょう。 私が高エネルギー物理学研究所(現高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所)から、大阪大学に着任したのは1980年でした。山部先生が急逝された後の講座を引き継ぐということでしたが、伝統的な原子核研究の幅を素粒子研究にまで広げる意図があってのことであろうと思われました。時はあたかも高エ研の12GeV陽子加速器が稼働を始め、日本における本格的な高エネルギー物理学実験舞台の幕が開いた時期にあたります。共同利用研究所に出張して実験を行うことは、いまでこそ当

3、たり前のことになりましたが、私が持ち込んだ、大学を留守にしてしかも学生まで長期的に連れ出してしまう研究体質は、当時としては相当なカルチャーショックを与えたようです。しかも私自身はそれまで日本での大学研究経験が無く、博士号取得後ただちにアメリカに赴いて7年を過ごして向こうの気風に染まっており、率直な発言こそ正しい振る舞いと信じ切っていましたので、随分と生意気なことを言ったと今顧みると冷や汗が出る思いです。幸いにも物理教室の先生方には暖かく見守っていただき、雑用も随分と軽減されるように配慮していただい

4、たようです。当時はそのようなことに気が付くだけの思慮も持ち合わせませんでしたが。 原子核実験施設の役割の当時の状況は、核物理センターが全国共同利用研として1971年に発足して、中堅メンバーが移行すると共にしばらくはセンターを軌道に乗せるお手伝いがメインの仕事であったと思われます。しかし、若槻先生が阪大の総長に就任され、杉本先生もまた東大原子核研究所所長として出られるなど、施設の原動力であった大先生方に代わって、江尻・鹿取・南園等の若き新進気鋭の先生方が施設を担うことになり、新たなる発展を期待された

5、時期でもありました。  当時の原子核実験施設の主たる施設は110cmサイクロトロンと4.7MeVヴァン・デ・グラフでした。施設の構成グループは、加速器・測定器部門、原子核・素粒子スペクトロスコピー部門ヴァン・デ・グラフ部門を中心に、質量分析部門、放射性同位元素部門などの施設加速器ユーザーグループに加えて、高エネルギー実験部門、宇宙物理部門、理論部門と実に多岐にわたりましたが、運営の主体は上記の原子核および高エネルギー実験グループの4部門があたりました。 原子核実験施設が長らく望んできたことが核物理

6、研究センター発足で実現したわけですから、本来はその時点で施設が消滅しても不思議はなかったのですが、若槻先生のご意向で(と私は聞きましたが)存続することになり、施設のあるべき新しい姿を打ち出す必要がありました。私の見るところでは、1979年から1988年までの江尻施設長の時代3に、その後の原子核実験施設の性格がほぼ形作られたように思われます。施設には加速器を自ら建設して研究を展開してきた長いそして輝かしき伝統があり、当初は、つまり80年代初頭はという意味ですが、自らの加速器を持つということは原子核実

7、験研究者にとってはいわば自明の論理であったようです。他方では、加速器実験は共同利用により行うという文部省の方針が明確に打ち出された時期に相当し、大学の研究グループが独自の加速器を持つことは難しい時代に入ったばかりのころでした。江尻さんは施設長として文部省と接触するうちに直ちにこの趨勢を読みとったのであろうと思います。施設から文部省に出され、83-84年度予算として認められた基礎物質相互作用の研究という概算要求は、各実験グループの共有できる計算機(FACOM360R)を中心に、主としてハイパー核実験

8、を想定した測定器システムでした。私の記憶する限り、私の阪大在任中に原子核実験施設から出されて通った唯一の大型施設予算であったと思います。 1988年には江尻さんの後を受けて、図らずも私が施設長を引き受けることになりましが、原子核本流から見れば傍系に属する私の施設長時代は、歴史的には施設の単なる一つの通過点として位置づけられるでしょう。施設長になったからには何かやり遂げたいという願望はあり、それなりに努力はしたつもりですが、施設の希望する新しいプロジェクト提案のうち大型のものは、文部

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