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时间:2019-02-17
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1、戦国を生きた男たち《武将編あ:愛洲兵部少輔~安藤守就》--------------------------------------------------------------------------------喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。--------------------------------------
2、------------------------------------------→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒]に関連ページあり。愛洲兵部少輔(あいす ひょうぶのしょう) 生没年不詳実名は不詳、小田原北条氏の家臣。船大将として浦賀水軍を統轄した。永禄十年九月、安房里見氏による三浦三崎侵攻の際、同地の水軍の将梶原景宗らと菊名浦でこれを迎撃、戦功をあげた。玉縄衆の一人で、三浦佐原・御蔵出にて二百十二貫余の知行地を有した。青景隆著(あおかげ たかあきら) ? ~1556元は
3、長門の国人で大内家(義隆)の家臣となり右京進、越後守を称す。杉重矩と一時対立するがのちに和解、また日頃仲の悪かった相良武任をライバルの陶晴賢に讒言したことにより、晴賢の謀反の一因を作ったという。弘治二(1556)年戦死と伝える。青木一重(あおき かずしげ) 1551~1628重直の嫡子で通称忠助、所右衛門のち従五位下民部少輔、摂津麻田藩祖。はじめ今川氏真に仕えて新阪の戦いで首級を挙げ、のち徳川家康のもとで姉川合戦で活躍、一説に朝倉氏の勇将真柄直隆を討ち取ったと伝える。その後丹羽長秀・豊臣秀吉に仕え一
4、万石を領した。大阪の役の際には七手組の一隊長を務め活躍するが、和議の使として駿府からの帰途に京都で拘禁された。戦後家康に許されて再び徳川家臣に戻り、摂津豊島郡麻田で一万石(格式は十万石)を領した。青木一矩(あおき かずのり) ? ~1600豊臣秀吉の家臣で通称勘七、紀伊守を称す。はじめ豊臣秀長に仕え、のち秀吉の直臣となり慶長二年には豊臣姓を賜った。越前北ノ荘城主のとき関ヶ原の戦いが起き西軍に属す。戦後前田利長を通じて家康に詫びを入れたが程なく病歿、領地は没収された。青木重直(あおき しげなお) 1
5、529~161343/43美濃安八郡青木郷の土豪で通称加賀右衛門尉、武蔵守。のち入道して浄憲と号し、法印に叙せられ刑部卿を称した。はじめ美濃守護土岐頼芸の被官で、後に斉藤道三に仕える。斎藤氏没落後は織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、秀吉の下ではお咄衆を務めた。知行所は摂津豊島郡(現豊中市・池田市)内。青木可直(あおき よしなお) 1561~1622重直の四男で一重の弟。通称次郎左衛門、名は初め一直。はじめ美濃で池田輝政に仕え、関ヶ原合戦ののち輝政移封とともに姫路に移る。慶長十五年より徳川家康の直臣となり、
6、美濃にて三千石を領した。大坂冬の陣では永井直勝の与力として兄一重と戦う。のちに一重より父重直の遺領を分知され、五千石の旗本となった。青地茂綱(あおぢ しげつな) ? ~1570蒲生定秀の二男で賢秀の弟、氏郷の叔父にあたる。近江栗太郡青地郷の土豪青地長綱の養子となり、駿河守を称す。賢秀とともに織田信長に臣従、伊勢攻めなどに従軍。1570年近江宇佐山城を浅井・朝倉連合軍に攻められた際、守将の森可成とともに奮戦したが討死した。青地元珍(あおぢ もとよし) ? ~1633茂綱の子で名は光珍とも。通称内
7、匠助、四郎左衛門。元織田信長の臣で、元亀元年十月、父茂綱の戦死により家督を嗣ぎ所領を安堵される。以後佐久間信盛の与力となり石山本願寺攻めなどに従軍、信盛の追放後は信長直属武将として働く。本能寺の変後は織田信孝に仕えるが、信孝自刃後は蒲生家に身を寄せ、後に前田利長に仕えた。赤池長任(あかいけ ながとう) 生没年不詳肥後相良氏の家臣で伊豆守を称す。肥後球磨郡赤池城主。指揮下に丸目石見・岡本河内ら勇将を擁し、島津家との筈ヶ尾合戦や大口初栗合戦などで勇戦活躍、互角に渡り合った。特に初栗合戦では猛将島津義弘の
8、肝を冷やさせたという。赤井照景(あかい てるかげ) 生没年不詳照康の子で通称は又六、上野館林城主。北条氏康・氏政の傘下に属し、長尾景虎の関東出兵時には敵対したが長尾景長・由良成繁・富岡重朝らに攻められ開城、武蔵忍へ逃れた。赤井直正(あかい なおまさ) 1529~1578丹波氷上郡後家(ごや)城を本拠に奥丹波三郡を領した土豪赤井時家の二男で、幼名才丸、通称は悪右衛門。室は波多野元秀の娘(兄家清室の再嫁)43/43のち関白近衛前久の妹。初め荻野氏を称し十
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