戦国大名武将日文百科【立花道雪】

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1、戦国武将覚書立花道雪(たちばなどうせつ)1513~1585○戸次氏 八幡丸 孫次郎 鑑連 伯耆守 左衛門大夫◇父:戸次親家 室:入田丹後守女、問注所統景女、宗像氏貞女 養子:戸次鎮連、立花宗茂(高橋統虎) 豊後・大友氏臣。若い頃、落雷による負傷で下半身不随となり、合戦では家臣に駕籠を担がせて指揮を執った。生涯のほとんどを戦場で過ごし、多々良川の戦いにおいては数に勝る安芸・毛利軍を撃退し武名をあげる。大友一門の筑前・立花鑑載が安芸・毛利氏に通じて裏切った時、これを討ち後に立花氏を継ぐこととなった。しかし男子に恵まれず、一時は一人娘を男装させ立花城主としたが、やがて高橋統虎を婿に迎えて後嗣として

2、厳しく育て上げた。筑前・秋月種実の柳川城攻略を前にして73歳で亡くなった。辞書の索引用語の索引ランキングウィキペディア立花道雪出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2010/06/1804:21UTC版)凡例立花道雪/戸次鑑連※肖像画は福岡県柳川市の福厳寺に所蔵されている時代戦国時代から安土桃山時代生誕永正10年3月17日(1513年4月22日)死没天正13年9月11日(1585年11月2日)改名戸次親守、親廉、鑑連、麟伯軒道雪(号)別名八幡丸、孫次郎(幼名)、戸次道雪鬼道雪、雷神(渾名)神号梅岳靈神戒名福厳院殿前丹州太守梅嶽道雪大居士墓所福岡県新宮町の梅岳寺福岡県柳

3、川市の福厳寺官位伯耆守、左衛門大夫、紀伊守、丹後守主君大友義鑑→宗麟氏族藤原北家秀郷流大友氏族(戸次氏、立花氏)父母父:戸次親家、母:由布惟常の女継母:臼杵長景の女・養孝院兄弟戸次鑑連(道雪)、異母弟:戸次鑑方、戸次親行、異母妹:(戸次親行正室)妻正室:入田氏継室:問註所鑑豊の女・仁志側室:宗像正氏の女・色姫子実女:立花誾千代(立花宗茂正室)、立花政千代(12歳で早世している)養子:立花宗茂、戸次鎮連、立花道清、安武茂庵養女:戸次親延の娘(小野鎮幸)室、安武鎮則の娘(米多比鎮久)室、高橋紹運の娘(立花成家)室 表・話・編・歴 立花道雪/戸次鑑連(たちばなどうせつ/べっきあきつら)は、戦国時代

4、から安土桃山時代にかけての武将であり、豊後の戦国大名大友氏の家臣である。なお、本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。目次·1生涯o1.1二階崩れの変o1.2毛利氏との戦いo1.3立花氏継承o1.4島津氏との戦いと病死·2人物・逸話o2.1雷神を斬るo2.2宗麟への諫言o2.3勇将の下に弱卒なし·3家臣団o3.1戸次の二王o3.2立花双璧o3.3立花四天王o3.4道雪七家老·4関連作品·5外部リンク生涯二階崩れの変永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる。幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後

5、妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。大永6年(1526年)に父の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続した。家督相続後は大友義鑑に仕え、初陣で敵将を捕縛するという武功を挙げて義鑑に賞賛された。天文19年(1550年)2月、大友義鑑が嫡男義鎮を廃嫡にし、三男塩市丸を後継者としようとしたことから、反発した義鎮派の家臣が義鑑を襲撃するという二階崩れの変が発生、数日後に義鑑は変で受けた傷がもとになって死去する。この際、鑑連は義鎮を支持し、彼の家督相続に力を尽くした。また、鑑連は二階崩れの変の直後に阿蘇氏を頼って肥後に逐電した塩市丸派の入田親誠を追討するために、7月に肥後に侵攻している。天文22年

6、(1553年)、41歳となった鑑連は異母弟鑑方の子鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している。しかし、翌天文23年(1554年)には肥後に侵攻して菊池義武を滅ぼすなど、隠居とは名ばかりであったようである。毛利氏との戦い以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年(1557年)には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄4年(1561年)には豊前に出陣して毛利元就と戦っている。こうした功績から永禄4年に義鎮の補佐役である加判衆に任じられている。また、永

7、禄5年(1562年)、義鎮が出家した(法名は宗麟)のにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している。道雪を中心とする大友勢の毛利氏との戦いは永禄6年(1563年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介により一度大友氏と毛利氏の間で休戦が成立するまで続いており、またこの休戦の際は宗麟に対して7か条に及ぶ断固反対の立場を貫いている。毛利氏との戦いは永禄10年(1567年)1月にかつて道雪が討った秋月文種の子種実が

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