戦国大名武将日文百科【佐々成政】

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1、三省堂大辞林さっさ-なりまさ【佐々成政】(?-1588)安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕えて越中富山を領す。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉と戦って敗れ、降伏。秀吉の九州平定後、肥後に封じられたが、一揆を鎮圧できず、責めを問われて切腹。辞書の索引用語の索引ランキングウィキペディア佐々成政出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2010/06/0703:17UTC版)凡例佐々成政佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)時代戦国時代-安土桃山時代生誕天文5年1月15日(1536年2月6日)?死没天正16年閏5月14日(1588年7月7日)別名内蔵助(通

2、称)戒名成政寺庭月道閑大居士墓所兵庫県尼崎市法園寺官位従五位上陸奥守、従四位下侍従主君織田信長→秀信→豊臣秀吉氏族佐々氏(近江源氏)父母父:佐々成宗(盛政)母:堀場宗氏の娘?兄弟政次、孫介、成政、長穐、信宗妻正室:慈光院(村井貞勝の娘)子松千代丸、随泉院、岳星院、光秀院、松寿院、山岡景以室、狩野孝信室養子:佐久間勝之(のちに養子縁組解消)、佐々成光、信宗 ? 表・話・編・歴 佐々成政(さっさなりまさ)は、戦国時代・安土桃山時代の武将。尾張国出身。父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院)の外祖父。目次·1生涯o1

3、.1尾張時代o1.2府中三人衆時代o1.3越中時代o1.4肥後時代·2人物·3逸話·4系譜·5家臣団·6肥後治政についての諸説·7行事·8佐々成政を演じた俳優·9脚注·10関連項目·11伝記生涯尾張時代佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。兄に政次、孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表し、永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと

4、共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』・『当代記』)。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。府中三人衆時代天正3年(1575年)9月、織田信長は越前制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多か

5、った。越中時代天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた

6、毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまった。勝家の敗死後は、前田氏の寝返りや上杉家の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵された。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦

7、が起こった。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられた

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