朝鮮とベトナムの年号についての考察

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1、修平㆟文㈳會㈻報 第㈦期 民國㈨㈩㈤年㈨㈪HSIUPINGJOURNALOFHUMANITIESANDSOCIALSCIENCES.VOL.7,pp.151-172(September2006)151朝鮮とベトナムの年号についての㆒考察王福順摘要中国西漢に始まった年号の制度は、その後本土の正統国家に受け継がれたのみならず、周辺の諸国(朝鮮・ベトナム)にも影響した。朝鮮の年号には、朝鮮で独立に建てられたものと、中国の年号を尊重して使った場合とがある。朝鮮は、地理的に中国と陸続きであり、また西漢の武帝時代(元封3年)以来、四百年近くも中国王朝の直轄支配を受けた。それだけに文化的成長は早く遂げ

2、たが、政治的自立はかえって難しくならざるをえなかったようである。ベトナムでも古くは干支紀年あるいは王位紀年が使われたと考えられるが、漢代からの中国支配下では中国の年号を使用した。ある時期に中国からの自立をはかり、独自の年号を立てたが、1945年から韓国と同様、最終的に年号も廃止され、西暦を使用し、現在に至っている。キーワード:年号、朝鮮、ベトナム。王福順:修平技術学院応用日語系副教授投稿日期:950313 接受刊登日期:950413152修平㆟文㈳會㈻報 第㈦期 民國㈨㈩㈤年㈨㈪朝鮮和越南年號制度之探討王福順摘要起源於中國西漢之年號制度,爾後,不僅在歷代正統國家所沿用,也影響鄰近的國家(

3、如朝鮮和越南)。朝鮮的年號,大致可區分為獨自建立的和因尊重中國而使用的年號兩種。朝鮮在地理上陸地鄰近中國,而且在西漢武帝時代(元封3年)以來,將近有四百年受中國王朝的支配統治。也正因為如此,雖然,文化的成長極為快速,但政治的獨立反而更顯得不太容易。越南自古以來使用干支紀年或王位紀年,但自漢代以來因受中國統治而使用中國年號。雖然,在某時期,因想要獨立而建立獨自的年號,但1945年以後到現在,和韓國一樣,最後也廢止年號而採用了西曆。關鍵詞:年號、朝鮮、越南。王福順:修平技術學院應用日語系副教授朝鮮とベトナムの年号についての㆒考察:王福順153Ⅰ はじめに年号は元号ともいう。中国・日本などで、

4、ある時点から起算して年数を計算するための特定の称号である。年号は中国で起り、東アジア世界つまり漢字文化圏で約二千年余広汎に行なわれてきた紀年法であり、夥しい歴史事象が年号を伴って記憶されている。中国の建武中興・開皇之治・貞観之治・靖康之変や日本の大化改新・永享の乱・享保の改革・明治維新等々、例をあげればきりがない。法制史の分野でも、永徽令・開元礼・慶元条法事類・万暦会典や弘仁格・延喜式・建新新制・明治憲法など年号は法典を識別呼称として独特な指標となっている。時をどのように表記するかということになると、暦が基準となるが、周知の如く、日本と中国ともに近代化の過程で伝統的な太陰太陽暦(農暦)か

5、ら太陽暦(グレゴリオ暦)への切替えが行なわれ、日本では明治六年(1873)、中国では民国元年(1912)から欧米と同一の太陽暦を使用している。しかるに中国では辛亥革命により二千余年続いた年号が廃止されて民国紀年となり、今日中華民国(台湾)ではそれが使われ、中華民国何年と表示されている。その一方、中華人民共和国では成立(1949)以来、紀年に西暦を採用して現在に至っている。日本ではグレゴリオ暦を使用しつつ依然として1000年余の年号を襲用し現代に及んでいるのである。本稿の課題は、年号を使用する意味をアジア世界における歴史の中に探り、とくに朝鮮とベトナムの年号制度を問うことにある。Ⅱ 朝鮮の

6、年号1 朝鮮独自の年号朝鮮の年号には、朝鮮独自の年号と、中国王朝の年号を順奉して使用したものとがある。朝鮮は、地理的に中国と陸続きであり、また前漢の武帝時代(元封三年=B.C.108)以来、四百年近くも中国王朝の直轄支配を受けた。それだけに、文化的成長は早く遂げたが、政治的自立はかえって難しくならざるを得なかったようである。154修平㆟文㈳會㈻報 第㈦期 民國㈨㈩㈤年㈨㈪朝鮮でも始めは干支紀年が用いられ、続いて王位紀年が用いられたと考え(1)られている。ここに独自の年号が現れるのは、高句麗・百済・新羅の三国時代である。この三国は四世紀に入って中国が分裂状態に陥ると、相次いで独立王国を築き

7、、互いに勢力を競った。そのうち、朝鮮北半に拠点を置いた高句麗は、四世紀末から五世紀をかけて最も強大であった。しかし、六世紀に入ると、南東部に拠点を持つ新羅が次第に勢力を伸ばしてくる。やがて七世紀中頃には、新羅が唐と手を結んで西の百済と北の高句麗とを攻め落とし、朝鮮全土の統一に成功した。朝鮮では独自の年号が数少なく、新羅の年号以外は連続建号が少なく、継続使用の年数も長くない。しかし早くも高句麗には四世紀から、新羅には六世紀から独自の年

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