a study of hayton la flor des estoires de la terre d'orient

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16、.AStudyofHayton'sLaFlordesEstoiresdeIa庇γ7ed'OrientilHidekiTakata本誌前三回にわたって翻訳掲載してきたハイトン「東方史の華」につき解説・紹介する。「小llアルメニア王国」「ハイトン」「作品一各巻の内容・構成と成立」「おわ)に」の各章よりなる。!キーワードハイトンモンゴルアルメニアイル・カン国中世東西交渉史I'-越えた大なるものであったが、そのスケール0.はじめにと直接性においてこれに及ばない。歴史というものが、個々の出来事の寄せ集同時代の歴史家ラシ

17、ード・エッデイーンめではなく、そのつながりであり、そこにみ(c.1247-1317)の『集史」が鰻初の世界史とlられる方向性をもった動きのことであるなら呼ばれるのも、その詳細な叙述・該博な知1ば、世界史もまた、世界の個々の国や地域の識・膨大な量・広範な地域と時代、それに偏出来事の寄せ集めではなく、そのつながりで狭な民族主義に片寄らぬ公正な記述のみによあり、そこにみられるもっとも大きな動きのるのではなく、イル・カン国の宰相として当ことであらねばならない。とするならば、い時の世界の中心に身を置くことによって、中わ

18、ゆる「パークス・モンゴリカ」下にあった国からシリア・トルコまでの情報を手近に1十三世紀こそ、世界史という視点からするなし、マムルークやフランクにも通じるというらば、モンゴルの時代と呼ばれてしかるべきふうに、全世界を視野におさめることを可能であり、世界史第一章たるにふさわしい。嵐にする現実があったからであった。現に、ガーにたとえられるその動きによって、ユーラシザーンが彼にその編纂を命じたのも、世界帝ア大陸のほぼ全域が巻き込まれ結び付けられ国たるモンゴルの下でそれが初めて可能だとて、初めて世界史と呼びえるものが成

19、立したいう明確な自覚があったからであった。z時代だったからである。先立つ時代の古代エもしヨーロッパとは、そもそもイスラムにジプト、ペルシャ、ギリシャ・ローマ、漢・唐、より孤立させられることによって成立したのイスラム・アラブ等は、いずれも国や地域をならば、それはとりも直さずその残余の世界I高田英樹:大阪国際女子大学コミュニケーション学科-147-高田:ハイトン「東方史の華』について149148大阪国際女子大学紀要21号-1(1995)れるオグーズ系トルコ人(トルクメン)の遊1045年にはガギク王がコンスタンティ

20、ノーつまり彼らのいう東方から切り離されたことトルコによって再び東方から閉め出された牧部族集団は、十世紀末同じく新興のトルコプルに位致されてバグラトゥニ王朝は滅んを意味し、そのヨーロッパが再び東方世界にヨーロッパはその目を西へと向け、陸路を諦系部族カラ・ハン朝do世紀半-11世紀末)だ。そこへ侵攻してきたのがセルジューク.復帰することを得るのは、このモンゴルにめ海へと向かわざるをえなかった。’とカズナ朝(962-1040c)による、トランスオトルコである。十一世紀始め以来すでに彼らよってであった。ところがそのこ

21、とは、そのこれらの当否を詳しく検証する余裕は今はクシアナにあったイラン系サーマーン朝の進出がみられたが、1064年の大規模な攻後ヨーロッパを中心として記される近代の世ないが、東西交渉といった双方にまたがる歴(874-999)の滅亡をきっかけとして大挙南西撃で首都アニが陥落する。これをみてアルメ界史では、今なお性々にして正当に認められ史については、宗教イデオロギーの強く支配下を開始したが、その最も大き

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