日语文学作品赏析《大秦景教流行中国碑に就いて》

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1、日语文学作品赏析《《《大秦景教流行中國碑《大秦景教流行中國碑ににに就に就就就いていて》》》作者:::桑原隲藏:桑原隲藏来源:::青空文库:青空文库私は明治四十三年四月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中國碑』といふ論文を發表した。そののち大正十二年の六月に、景教碑の模型の京都帝國大學到着を記念すべく開かれた史學研究會で、「大秦景教流行中國碑に就きて」と題する講演をした。茲に掲ぐる論文は、さきの論文と講演とを一纏めにして、新に作つたものである。茲に紹介する景教碑、詳しくいへば大秦景教流行中國碑は、唐時代に建設されたもので、その當時支那に流行した、キリスト教の一派のネストル(Nes

2、tor)教に關する古碑で、今日猶ほ支那の陝西省の西安府(民國の關中道長安縣)に現存して居る。ネストル教は、支那で普通に景教と稱せられたが、又ミシア(Missiah救世主の意味)教とも稱せられた。支那の記録にはミシアといふ言葉に、彌尸訶(『貞元新定釋教目録』)、彌施訶(大秦景教流行中國碑)または彌失訶(『佛祖歴代通載』)などの漢字を充てて居る。支那にはこの景教碑の外に、マホメット教に關する古碑もある。ユダヤ教に關する古碑もある。されどこの景教碑は、年代の古い點から觀ても、内容の豐富なる點から觀ても、文章や文字の優秀な點から觀ても、すべての點に於て、マホメット教關係の古碑や、ユダヤ教

3、關係の古碑に卓越して居る。兔に角古代のキリスト教關係の古碑といふので、早くから世界の注意を惹き、あらゆる支那の古碑中でも、一番世界的に有名となつて居る。明末に發掘されて以來、今日までこの古碑の歴史や解釋に關する著書や論文は、殆ど汗牛充棟といふ有樣で、歐米方面の文獻は、大略ヘレル(Heller)の『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り(1)、コルヂエ(Cordier)の『支那書史』には、一層網羅されて居る(2)。支那方面の文獻は、清の楊榮※[#「金+志」、387-1]の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリ(Wylie)の「西安府のネストル教碑」といふ論文中に備つて居る(3)。かく關係の

4、著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證據と思ふ。抑□景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウス(Nestorius)の唱へ出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一體に關して、新しい見解を主張した。彼の主張に據ると、キリストは神性を具へた一個の人間に過ぎぬ。從つてキリストの母のマリアを、從來の如くTheotokos(神の母)と稱するのを排して、Christotokos(キリストの母)と稱すべしと主張する(4)。西暦四百三十一年に開かれた、エフェスス(Ephesus)の宗教會議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。

5、されどこの新説は、西アジア地方に流行し、ついで中央アジアにも傳播した(5)。唐が支那を統一して後ち、塞外經略に手を着け、その國威が西域に振ふと、その太宗の貞觀九年(西暦六三五)に、阿羅本といふ者が始めて景教を支那に傳へた。爾來景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に當る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、當時の國都長安に在つた、大秦寺と稱するネストル教の寺院の僧の景淨、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舍城、即ちバルク(Balkh)から來て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、

6、伊斯(洋名イザドブジドIzadbuzid?)といふ人の出資によつて、この記念碑を建て(6)、ネストル教の教義や、その支那傳來の歴史を書き誌したものである。碑は黒色の石灰石より成り、その高さは臺の龜趺を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチといふ。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が刻されてある。漢字の外にエストランゲロ(Estrangelo)と呼ばれる、當時主として傳道の場合に使用された、古體のシリア文字が若干刻されてある。このシリア文字は、大體に於て景教に關係ある僧侶約七十人の名を記したもので、その大部分には之に相當する漢名を添へてあ

7、る。碑に刻された漢文の解釋は、可なり六ヶ敷い。今から二十餘年前に、上海在住のジェスイット派の宣教師のアヴレ(Havret)が公にした碑文の解釋は、尤も傑出して居るが(7)、それは未完成でもあり、又不十分の點がないでもない。併し大體から見渡して、この碑文の内容は、次の如き四段の順序になつて居る。(第一)天地創成のこと、原人が罪の人となる次第、及びキリストの降誕を述べたもの。(第二)唐の太宗の時、阿羅本が景教の經像を齎らして長安に來朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建

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