安苏干夫:关于南宋初期四大武将财政的研究

安苏干夫:关于南宋初期四大武将财政的研究

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1、HARP:HiroshimaAssociatedRepositoryPortalinstitution広島経済大学(HiroshimaUniversityofEconomics)Title『南宋初期・四大武将の財政に関する研究』Author(s)安蘇,幹夫Citation広島経済大学経済研究論集,2(4):87-108URLhttp://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/handle/harp/2243RightsHARP87「南宋初期・四大武将の財政に関する研究」安蒜幹夫目次はじめに二.武将群と営田・屯田との関連二四武将の財政

2、分析四.おわりに一,はじめに宋代には官僚・武将・寺院等が大土地所有,即ち荘園経営を行っていたことは周知のとおりであるOすでに,朝延よりの賜給,荒蕪地の開墾,違法占田,民団の侵奪等々によって所有地を拡大していったことは明らかにされているOさて,南宋時代初期の,特に韓世忠・劉光世・張俊・岳飛に代表される武将達も例外ではなく,当時(南宋中期)の人葉適によって,r況乎大将殖私軍食」と指摘されているように,大土地所有を行っていたことは明白であるOさきに武将の一人である前出の張俊に関して,彼の勢力の拡大過程を詳細に検討してみた。この稿においては,これら四武将の

3、勢力の拡大と相応して,彼らは如何にして財政的に自己の軍隊を維持し,その上に如何にして大土地所有化=荘園化,あるいは財の蓄積を行っていったのか。換言すれば,彼らの兵員数の増加とその時々の経済状態との関係を探究しようとするものであるO88第2巻第4号(経済学・経営学論)ニ,武将群と営団・屯田との関連張俊の大土地所有の実態として,建炎以来繋年要録(以下繋年要録と略)巻135,紹興十年夏四月乙主の条に,(張〉俊喜殖産,其罷兵而帰也,歳収租米六十万剤とあるように,張俊が租米60万石を納入して~、る記事が見えているO即ち彼が大土地所有をなしていることは明白なの

4、であるO張俊:土,I汝自小官朕抜擢至此,須当自前如作小官時,乃能長保詰責為子孫之福Jとか,あるL、は「帝於諸将中,春俊特厚」とあるように,高宗の寵愛を受けて大武将;こまでなった人物であるCこうL、う状況の中での彼のこの大土地所有について考察を進めてみよう2三朝北盟会編巻237,紹興三十一年二月二十九日の条には,二十九日戊辰張子顔等輪米助軍:{;承議郎充敷文閣待制提挙江川、l太平興国宮子顔・右通直郎充敷文待制提挙祐神観子正・右承事郎充集英殿{膚撰主管佑神観子仁・左朝散大夫充秘閣{甫撰江南西路計度転運副使兼本路勧農使宗元奏,臣等伏親王師進封矯慮兵食須費

5、用浩大,謹以私家積糧米一十万石進献朝延,伏望聖慈特令所属各差人船前去逐荘,交割開具{亭米去処下項,湖州烏程県烏鎮荘一万二千石,思渓荘八千石,秀川、l嘉興県百歩橋荘五千石,平江府長掛H県青山荘六千石,東荘二千五百石,呉県横金荘二千五百石,儒教荘五千石,常州無錫県新安荘七千石,宜興県;善計荘九千石,晋陵県荘二千石,武進県石橋荘一千石,宣黄荘七千石,鎮江府丹徒県楽営荘二万石,新豊:荘六千石,太平州、

6、蕪湖県逸恭荘七千石,己上共計一十万石有旨令転運使拘収とあるO子顔・子正・子仁は張俊の子供であり,宗元は孫であるつ張俊は紹興24年に死亡しており,この記述はそ

7、の7年後のことであるので,明らかに彼らの所有している荘園は,張俊が所有していたものであったことにはまちがL、はなかろうO次に彼らの荘園の所在を地域的に見てみると,湖『南宋初期・回大武将の財政に関する研究』89州は両所路,鎮江府は両断路,太平州は江南東路であるO地域的な関連性を見るために張俊の地方で、の職監を調べてみると,建炎3年7月翫東制置使,建炎4年4月j折西江東南]置使,建炎4年8月江南路招討使,紹興元年1月江准招討使,紹興4年10月斯西江東宣撫使,紹興5年1月江南東路宣ω(13)撫使,紹興7年8月准西宣撫使,紹興10年6月河南北諸路招討使とな

8、っているO明らかに彼の勤務地と荘園の所在地との関連性を見い出すことができるOそれでは如何にして荘園を各地につくっていったのであろうか。宋会要輯本,食貨2の16,紹興六年の条には,二月三日,詔i佐南西路兼太平川、i宣撫使劉光世・准南東路兼鎮江府宣撫使韓世忠・江南東路宣撫使張俊,並兼営田大使とある。即ち彼ら武将達は営団の事に関しでも管理を行っているのであるO明らかにこの史料は彼ら武将と屯田・営団との関連をうかがわしめるものであり,少しく史料を探ってみようDまず屯田と営団の区別については,北宋期の史料ではあるが,資治通鑑巻248,大中三年八月己丑の条に,

9、史臣日,営田之名,蓋縁辺多隙地,番兵鎮成,課其播殖,以助軍須,調之屯田,其後中原兵輿,民戸減耗,野多閑田,市治財賦者,如治

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