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时间:2020-04-10
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1、日本文学作品选读『舞姫』森鴎外の初期文学活動1、森鴎外(1862-1922):本名を林太郎という。1867年(6歳)から漢学を学びはじめ、1869年(8歳)から蘭学を修め、1871年父に従って上京し、ドイツ語を学んだ。このように彼は早く東洋と西洋の二つの文化を吸収しながら成長した。1874年(13歳)東京医学校予科に入学し、1881年東京大学医学部を卒業して、陸軍軍医副に任じられ、東京陸軍医院に勤めた。1884年(23歳)陸軍衛生制度と軍隊衛生学研究のためドイツ留学を命ぜられ、4年間ベルリンなどの各大学研究室で医学を研究するかたわら、西欧
2、の近代文学、哲学、美学、法学など広い分野にわたって身をもって触れたことが、後年の文学活動の素地となった。帰国(1888年·27歳)後、軍医として順調に昇進して、陸軍軍医総監·陸軍省医務局長までに達し、なお晩年には帝室博物館総長·帝国美術院長などを歴任した。一方文学の面でも、詩·小説評論·翻訳などの各分野にわたって多彩な活動を展開して、近代文学の確立と発展に寄与したのである。鴎外の文学活動はたいてい4時期に分けることができる。小説では、『舞姫』(1890·明23年)などロマンチックでゆたかなエキゾチシズムの匂いに彩られた近代小説を発表した。
3、鴎外の詩·小説·評論各分野にわたる多彩な活動により、近代文学を確立するうえで、二葉亭が近代リアリズム文学の先駆として貢献したのに対し、彼は近代文学における啓蒙的役割をし、近代ロマン主義文学の先達として寄与したのである。第1期は帰国してから、甲午中日戦争に従軍するまでである(1889~1894)。第2期は、甲午中日戦争後から『日露』戦争までで、『小倉時期』ともいう(1895·明28~1904·明37)。第3期豊熟の期第4期歴史小説·史伝の期2、『舞姫』について1890(明23)年1月『国民之友』に発表された。あらすじはこうである。主人公太田
4、豊太郎は父を早く失い母一人に育てられるが、幼いころから神童、秀才の誉れ高く、東大法科を卒業し、某省の役人となったが、官長の覚えもめでたく、ドイツ留学の身となる。外国の自由な風潮のなかで、豊太郎の今までの自分の生き方が、如何に「所動的·器械的」で、主体性のないものであったかを初めて知るに至り、新しい自我の目覚めを体験する。そして、政治や法律よりも歴史や文学に心をひかれるようになる。たまたま貧乏のため苦境におちいっている美貌の踊り子エリスを知り、援助してやったのがきっかけで愛し合うようになる。このことが公使館に知れて免官となり、留学をとりけさ
5、れる。母の死が伝えられ、主人公の進退はきわまったが、親友相沢謙吉のはからいで、新聞社の通信員となることができた。生活をきりつめるためにエリスの家に寄寓し、「憂きがなかにも楽しき月日」を送る。そこへ相沢が大臣天方伯に従ってやってきて、主人公の前途を憂い、エリスとの関係をたつようすすめる。やがて、天方伯に従いロシアへ行き、見事な才能を発揮し、天方伯の帰国の誘いに「承はり侍り」と答えてしまう。エリスはすでに豊太郎の子を身ごもっていたが、裏切られたことを相沢から知り、発狂してしまう。豊太郎は幾ばくの金を与え、エリスの母に一切を託して帰国の途につく
6、。この小説は、太田が帰国の途中、西貢の港に着いて、5年前のことなどを思い浮かべながら、過ぎし日の顛末を綴るという体裁である。「ああ、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裏に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」という太田の感慨でこの小説は結ばれている。冒頭文:石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾烈燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこ、に集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。解読:『舞姫』は主人公が西洋の自由な空気に触れて、自我にめざめながらも、みずからの弱さ
7、と、明治の官僚制度の重圧のために、まことの我を生かしていきたいと願いつつも、結局おのれの真実を最後まで貫き通すことができず、現実に屈伏して、エリスを捨てて、立身出世のコースを歩まざるを得ない悲ししみを抒情的に描いた近代小説である。家庭あるいは社会から見ても、立身出世がなによりも優先していた時代において、近代に目覚めた青年のいたましい魂のもだえをせいいっぱいに描き出したところに、近代文学としての価値があるのである。
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