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时间:2018-09-06
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1、KANAGAWAUniversityRepository:舜水先生文集Language:KANAGAWAUniversityRepository>800図書館KanagawaUniversitylibrary>貴重書RareBooks>iその他 和書>舜水先生文集:[29]コレクションのホームページ検索対象:検索語あるいは、ブラウズこのコレクションを購読する我国近世の朱子学に関連して水戸学派がある。初期水戸学は第2代藩主徳川光圀による『大日本史』編纂を軸に展開するが、史局(彰考館)に集まった学者の中には、綗斎門人の三宅観瀾、闇斎再伝の弟子栗山潜
2、峰らがあり、朱子学=闇斎学との深いつながりがうかがわれる。彼らはその歴史論を朱子学の尊皇賤覇の思想によって評論しながら、江戸幕府については天皇家(精神的権威)と幕府(政治的実権)との二元的統治を尊重して尊皇敬幕·絶対忠誠の倫理を強調した。また、この初期水戸学の学政に影響を与えた人物に、明の遺老朱舜水があり、彼は明国の滅亡により日本に亡命帰化し、光圀の招聘により水戸藩に仕えて礼法·学制·農法などを指導した。そしてその門人からは彰考館総裁となった安積澹白が出ており、義公時代の水戸学に大きな影響を与えた。朱舜水(1600-1682)。名は子瑜、字は魯
3、璵、舜水は号。明の万暦28年(1600)、中国の淅江省に生まれる。家は代々明朝に仕える士太夫階級で舜水も将来を嘱望されたが、時は明朝の没落期に当る。万暦44年(1616)には満州族ヌルハチが帝を称し後金国が成立、国内的には東林党·非東林党の争い、宦官魏忠賢の専横など明末の内憂外患は深刻を極め、崇貞9年(1636)には後金は国号を清と改めて南下し、ついに順治元年(1644)清軍は北京に入城する。ちなみに、明末清初の儒家黄宗儀は1610年、顧炎武は1613年、王夫子は1619年に生まれており、彼らが明の遺臣をもって任じ慎重に抵抗したことは既に述べた
4、。明の遺王が各地に擁立され次々に滅ぼされるなかで、或いは日本乞師として、また中国を中心とする安南·日本間の三角貿易に拠り明の回復を図るなど、その前半生を明王朝の復興にかけた朱舜水の行動派、名分を重んじ信条に生きる生きる明末儒者=知識人のそれと軌を一にするものであった。しかし、順治2年(1645)南京落城、さらに遺王永暦帝に寄る鄭成功の北征の失敗(1658-1659)をみた舜水は残明の回復を断念し、日本の知己安藤守約(柳川藩儒者)の懇請もあり、ついに日本への亡命を決意した。そのとき舜水は既に60歳、万治2年(1659)冬である。鎖国政策をとってい
5、た日本への亡命にはなお舜水の日本に対する期待と願望が秘められていたが、永暦15=寛文3年(1663)鄭成功も台湾解放後に急死と、南明復興の望みは益々薄くなった。寛文4年(1664)徳川光圀は儒臣小宅生順を長崎へ遣し、舜水の江戸東上を懇請、典折を経て寛文5年(1665)正式の招聘を受け舜水は長崎から江戸へ移り、異国における第2の人生へ踏み出す。このとき舜水66歳、以後江戸駒込の藩邸で没する迄の17年間、水戸藩の賓師として光圀の厚遇を得、また28歳年下の光圀との信頼と敬愛の念は固く、日本において初めて安住の地を得たと云える。舜水の学問は朱子学と陽明
6、学の中間·実学にあるといわれ、理学·心学を好まず空論にはしることを避け、実理·実行·実用·実功を重んじた。舜水は光圀の学問興隆の意図によく応え、指導教官として『学宮図説』(孔廟学舎の精密な雛形-現湯島聖堂はこの模型による)の作製、釈尊(供物をおき孔子を祭る)の祭器、礼の改定、明室の衣冠の製作など明朝遺儒の学識を示すものばかりでなく、小石川後楽園の石橋の設計や生産技術·殖産興業など実学的知識による功績も多く遺している。また、寛文12年(1672)舜水73歳のとき水戸に彰考館が開かれ、多くの学者がここに学ぶが、舜水の学風を最も良く伝えた門人に安積澹
7、白があり、既述の如く彼は『大日本史』編纂の第2代史館総裁となっており、『舜水先生行実』は今井弘済と澹白の撰によるものである。舜水は日本亡命前から健康を害していたが、天和2年(1682)長崎時代の恩人安藤守約と再会することなく永眠、常陸久慈郡大田郷(現茨城県太田市)に埋葬される。光圀は墓石に自ら筆をとり「明徴君子朱子墓」とかきしるし、「文恭」の諡号を贈った。本書『舜水先生文集』28巻附1巻は舜水研究の最も基本的な文献であり、光圀在世中の元禄10年(1697)に28巻をなし、舜水最初の弟子安藤守約(省庵)が序文を撰している。これに「行実·略譜」(前
8、出)を附録1巻として加え、正徳2年(1712)に源(徳川)綱條が前序、安積澹白が後序を撰し、京都·柳枝軒茨城方道により彰考館定本として刊行されたのは正
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