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时间:2018-08-22
《户崎哲彦:柳宗元茔地“万年县之少陵原,实栖凤原”考释(上)》由会员上传分享,免费在线阅读,更多相关内容在学术论文-天天文库。
1、柳宗元塋地“萬年縣之少陵原,實棲鳳原”考釋(上)──唐代長安南郊の“原”と“郷”──戸崎哲彦はじめに先墓在城南,無異子弟爲主,獨託村鄰。自譴逐來,消息存亡不一至郷閭,主守者因以益怠。晝夜哀憤,懼便毀傷松柏,芻牧不禁,以成大戻。唐代の文豪・柳宗元(773-819),字は子厚が,永州左遷中に都長安の長官に宛てた手紙「寄許京兆孟容書」(巻30)の一節である(1)。後に子厚自身もこの「先墓」に埋葬されることとなる。友人韓愈は子厚のために墓誌・祭文・廟碑を撰しており,その「柳子厚墓誌銘」に「以(元和)十五年七月十日歸葬萬年先人墓側。……葬子厚於萬年之墓者,舅弟盧遵」という。「萬年」とは京兆府
2、万年県。「先人墓」とは「先墓在城南」,父鎭の墓を指す。その墓表である柳宗元「先侍御史府君神道表」に「葬于萬年縣棲鳳原」といい,また母盧氏の墓誌である柳宗元「先太夫人河東縣太君歸志」にも「安于京兆萬年棲鳳原,先侍御史府君之墓」という。子厚は嫡男。したがって子厚自身も京兆府万年県の「棲鳳原」にあった先塋地に帰葬された。「原」とは黄土台地の称(2)。皇甫「祭柳子厚文」に「歸葬秦原,即路江皐」という「秦原」は広く長安の原丘を指す。また,先立った妻についても柳宗元「亡妻弘農楊氏誌」に「葬于萬年縣棲鳳原,從先塋,禮也。……之死同穴,歸此室兮」という。「先人墓」父母の葬地「棲鳳原」に合う。
3、子厚が夫人の霊に誓った如く同穴されたかどうかは未詳。韓愈「墓誌」にそのことは見えないから,同兆異穴の可能性もある。以上を要するに鎭・宗元親子二代の墓塋は長安「城南」「萬年」県の「棲鳳原」にあった。(1)「先墓在」を百家注本は「先墓所在」に作って「一無“所”字」と注し,音辯本には「所」が無い。「因」は両本共に「固」に作るが,『全唐文』が「因」に作るのに拠る。(2)「原」は唐人詩文中に習見する「白鹿原」「樂遊原」「長樂原」「青龍原」「細柳原」等と同じで,長安周辺に隆起する黄土堆積高平台地。『通典』巻173「州郡」に「終南、惇物二山,皆在今長安及武功二縣。……原隰績,至于瀦野。高平曰原
4、,下曰隰」という「原」であり,「」と書かれることもある。城外の原丘は古代より陵墓の聚集地であった。〔1〕2柳宗元塋地“萬年縣之少陵原,實棲鳳原”考釋(上)楷〔子〕融元寂少安子敬約繹遺愛開,字存諒子夏從心???,幼名曹郎從裕(臨令)(旌尉)?察躬鎭宗元,字子厚(?)?,幼名曹婆?,幼名慥慥宗直,字正夫綜宗玄續宗一いっぽう柳氏一族の大墓は少陵原にあった。柳宗元「故弘農令柳府君(名は未詳)墳前石表辭」に次のようにいう。少陵原,柳氏之大墓。……由新墓而南若干歩,曰高祖王父蘭州府君諱某字某之墓;又東若干歩,曰曾祖王父州府君諱某之墓;西若干歩,祖王父司議郎府君諱某之墓。咸異兆而
5、相望。昭穆之有位序,壤樹之有豐殺,皆如律令。「少陵原」には東西に異兆相望して整然と昭穆を成す柳氏一族の「大墓」があった。ただしこの「石表」には柳宗元本人との関係への言及がないから,遠祖に過ぎないであろう。なお,韓愈「柳子厚墓誌銘」では家系については七世祖柳慶「魏侍中」と曽伯祖柳「唐宰相」の二人,著名な遠祖と父しか記されていない。柳宗元「唐故兵部郎中楊君墓碣」に「其世系則紀于大墓」というようにすでに大墓の別の碑に記されていたと思われる。また,柳宗元「故大理評事柳君()墓誌」には次のようにいう。魏相之嗣曰旦,仕隋,爲黄門侍郎。其小宗曰楷,至于唐(3),刺濟、房、蘭、廓四州。楷生夏縣
6、令府君諱繹(4);繹生司議郎府君諱遺愛,皆葬長安少陵原。(3)「先侍御史府君神道表」には「高祖諱楷,隋刺濟、房、蘭、廓四州。曽伯祖諱,字子燕,唐中書令」とあり,「隋」と「至于唐」が合わない。柳が中書令となったのは高宗永徽三年(652)であるから,柳楷は隋から唐初にかけての人であり,「隋」は「唐」の訛,あるは脱字があろう。(4)『元和姓纂』巻7および文安礼『柳先生年譜』には楷の子は「三人:〔子〕融・子敬・子夏」を挙げ,「繹」は見えない。『元和姓纂』によれば子敬の子に「約」がおり,あるいはこの兄弟か。また,韓醇の注では「祭從兄文」にいう「」州に帰葬された従兄を,恐らく「南陽」であ
7、ることから,柳寛と見做す。従兄ならば子厚と同世代であり,「繹」と「約」の世代が合致する。戸崎哲彦3遺愛生御史府君諱開,葬南陽。其嗣曰。柳旦の傍系柳楷以下は長安の「少陵原」を塋地とした。子厚は楷の五世孫。楷はかつて「濟、房、蘭、廓四州」の刺史を歴任しており(5),「蘭州府君諱某」に合うが,これにも子厚との関係が明記されていない。たしかに子厚の親族の墓塋も「少陵原」にあった。叔父(?)(6)について柳宗元「故叔父殿中侍御史府君墓版文」に「安於萬年縣之少陵原」,「故殿
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