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时间:2018-07-12
《日语综合教程第五册 红山桜》由会员上传分享,免费在线阅读,更多相关内容在行业资料-天天文库。
1、紅山桜――辰野和男昔、弾誓上人という遊行聖が桜の木を切って自分の姿を刻みはじめたところ、たちまちその木から熱血が流れでたという。上人は直ちに刻むのをやめて、袈裟で覆い、箱に入れた、という伝説がある。桜のなかでもとりわけ、紅山桜をみていると、熱血が流れでというこの伝説がなまなましく、身近な物に思えてくる。北の桜を尋ねる今回の旅は、新潟に住む写真家、高波重春さんと一緒にだった。私は行く先々の旅館でぬくぬくと畳の上に寝たが、高波さんは川辺や公園内で寝る習慣を変えなかった。毎年、春になると、桜前線を追って全国を走り回る。ほぼ二十年、そうやって桜を取り続けている人だ。高波さんとの旅はたのしか
2、った。撮影の合間に「いっくら撮ってもろくなもんできねえけど」「こんげな景色見てんと、写真というちんけえ四角の枠にあさめんのがばからしくなっちゃう。ただもう、ひざまずくしかないなあ」と自嘲のお国ことはが飛び出す時間は、結構調子に乗っている様子だった。ひざまずくどころか、そんな時の高波さんは三脚をかついで右に左にかけ回った。東北や北海道の桜をて、そのしぶとさに驚かされることが多かった。福島県社三春町にある紅枝垂の巨木、滝桜はわずかに盛りをすぎていたが、私は花の滝に打たれながら、その幹や枝の怪物しめたたくましさに見とれた。私よりも先に着いて撮影を続けていた高波さんは「三日前が最高でした。
3、最高のとき見てもらいたかったなあ」と残念がった。「最高の状態の桜の花が撮れるのは一年の内の一日、一日の内の一時ですね」とも言った。私としては、花はいつ見ても花だと思いたい。つぼみの桜もいいし、泥にまみれた花びらもいい。だが写真を撮るとなると、「一年、いっとき説」も成り立つのだろう。夜の内に十分に水分を吸った花が早朝の柔らかな光に包まれて照りはえる。その一瞬がすばらしという。逆に乾いた風にさらされ続けると、花の表情はおおざっぱなものになってしまう、のだそうだ。「ですからおらの取材は祈りの繰り返しです。」と写真家はいった。私たちは福島から青森へと桜を求めてさまよい、南に下って秋田の湯瀬
4、に着いた。湯瀬の山や沢ぞいに咲く紅山桜を見て、二、三日腰をすえることをきめた。高波さんは翌朝の撮影地点をさぐるのに半日を費やした。立ち止って、長い間、桜を見詰め、桜を見詰め、「桜と対話するなんていうのは、こちらの思い過しだろうな」とつぶやいた。「桜のほうは、好きで咲いているわけですし、しょせんは片思いなのでしょうが、早朝ひとりで山の中の桜と相対していると、ああ今おらはこの桜と二人きりで時間と空間をと共にしているという思いがあって、相思いながらも怖くなることがあるんです。桜には美しさを超えた恐ろしさがあり、恐ろしいと思いながらもひきこまれます。その瞬間を映像にしたいと思いますね」もう
5、すぐ五月だというのに、夜ふけて雪になった。翌朝六時、目覚めると雪はまだ降り続き、桜は白い紗のむこうにあった。川辺に停車中のワゴンを探し当てた。肩を落としているだろうと思った愛棒は「雪国はいつもこうです。はやる心を抑えている様子だった。私は雪の降りしきる湯瀬の山へひとりで入った。わが相棒の「片思い」に同情したこともあったし、私自身もまた、ひとりで桜にむかいたいという気分になっていた。雪はみぞれになり、みぞれがまた雪になった。雪に打たれながらも、花はほとんど散らない。これしきのことで、散かってたまるかという調子でしがめついている。雪がやんだ。雲が割れて、日がさす。切り裂くような透明な空
6、気の中で、ぶなの新芽が光る。キブシの黄の花が輝く。谷川のそばに一本のはぐれ桜があった。やあと呼びかければ、やあと答えてくれそうな、ほどほどの大きさの紅山桜だった。ぐれからきっぱりとはなれているところがいい。幹がぬれぬれと黒い。 光を浴びて、桜の花の一つ一つ、花びらの一枚一枚がにおいたち、なんというか、すっきりとした情念を放っている。「しず心なく」花の散かる様を、古人は歌った。だが、今、この紅山桜はまさに「しず心」で咲き続けている。降り続いた雪や雨に動ずることもなく、散り急ぐこともない。はぐれ桜が発している情念とは、しず心そのものではないか。長い間向き合っているうちに、そのしず心がこ
7、ちら側に忍び込み、心の奥底に潜むしこりのような物を溶かし去ってくれるような、そんな感じを味わった。午後遅く、私は高波さんと落ち合った。ラーメンを食べながら、いい写真が取れただろうかとたずねた。「いいのが撮れたと思ってても、現像があがってくるとむなしくなります」と相棒は自嘲の姿勢である。調子はまずまずだったらしい。ファインダーをのぞいている時の感動が写真にするとでてこない、それがもどかしい、ともいった。これは本音だろう。もどかしいから「来年こそは」と自分を追い立てる。「
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