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时间:2018-07-19
《九州王朝史年表作成途中间...【精品-doc】》由会员上传分享,免费在线阅读,更多相关内容在教育资源-天天文库。
1、※九州王朝史年表を作成しています。まだまだ途中です。間違いもずいぶんあると思います。今後も付け加え・訂正をしていきたいと思います。九 州 王 朝 史 年 表(2010年11月2日版) ※『旧唐書』:日本列島内に二つの王朝あり。一方を倭国伝、他方を日本伝に載せる。日本伝「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為すと。或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」。旧唐書は“王朝の交替があった”ことをのべている。その交替の仕方については、一説とし
2、て征服説をあげる。中国側の視点、古き王朝「倭国」、新しき王朝「日本国」。両者を別の伝として扱う記載様式。貞観二十三年(648)以前の貢献を「倭国」。長安三年(703)以降の貢献を「日本」。「漢より唐のはじめまで」は一貫した王朝としての「倭国」。それ以後、新興の別王朝として「日本国」として記載。(『隋書』は従来の「倭国」を「イ妥国」と表記し、「近畿王権(後の日本国)」を「倭国」と表記している。ややこしいですが間違えないように。イ妥国は南朝滅亡(589)以後は中国から孤立。太宰府にあって「日出ずる処の天子」を唱えた。天智6年(667)11月、
3、筑紫都督府滅亡。) 中国(唐)側は、新興「日本国」の使節と接触した最初の経験をつぎのように記す。「其の人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こたえ)ず。故に中国焉(これ)を疑う」。「実」とは古くから累積し、正史に記録されてきた中国側の認識。しかるに新興の「日本」の使節の主張がそれとくいちがっている。中国側はこれに疑惑をいだいた。『旧唐書』の成立は、後晋の劉〔日+句〕撰、天福六年(941)~開運二年(945)。唐朝の滅亡は、907年。『旧唐書』の情報源の第一人者は、阿倍仲麻呂(仲満・朝衡)。※『(北)魏書』:日本書紀はこの
4、書をモデルとした。例①鮮卑が南下して長安と洛陽を占拠し、北魏を創建したとき、その初代は太祖道武帝であったが、当人以前の各代、すべて「~帝」と記した。日本書紀もまた、「701年」の文武天皇以前「神武~持統」を「~天皇」と記した。例②「魏書」の背表紙に「魏書紀」、「魏紀」と記している。『続日本紀』において『日本書紀』が『日本紀』と記されているのと、同じ。例③神話、説話も相類似。「鮮卑と魏・西晋との一大交流」と「神功皇后(倭国の女王)と魏・西晋との一大交流」。神功紀「創出」を「編年の基点」とする。『(北)魏書』の成立は、六世紀北斉(505~57
5、2)。『日本書紀』の成立は、八世紀(720)。※『日本書紀』:その根本性格。性格①日本書紀全体の編成は、北朝(唐)に対して追従・阿諛するため、北朝の始祖王朝である北魏の正史『魏書』を模倣した。性格②南朝(劉宋、南斉、粱、陳)に認定された「都督」(倭の五王)を認めず、「評」と「評督」をカット。痕跡表記はあるが、日本書紀をはじめ、正倉院文書、万葉集までカットの体裁。北朝系の「郡」で一貫。性格③北朝の始祖「四~六世紀の魏(北魏)」は、「三世紀=卑弥呼の時代の魏(曹魏)」及び「西晋(武帝)」を継承する立場。従って日本書紀も「神功紀」を特設。曹魏・
6、西晋(武帝)との友交を「虚示」するため、俾弥呼と壹与の二人を神功皇后一人と等置(習合)。性格④『日本書紀』という本はかなりあちこちの史料を持ってきて自分の好きな時点に挿入するという癖がある。反面自分で勝手に、小説家が小説をつくるように、お話をつくってのせるというそういう悪い癖はない。※『東日流外三郡誌』と『新唐書』の日本:『東日流外三郡誌』は安日彦・長髄彦が筑紫の日向の賊に追われて、津軽に流れて来たと記す。筑前福岡市に字地名の日の本(ひのもと)があり、安日彦らはここから、ニニギに追われたのではないか。天孫降臨と言われているニニギらによる日
7、の本への侵略事件だ。安日彦らは津軽へ亡命する際、地名を持っていった。それが日本中央碑にある日の本であり、後の日本(ひのもと)将軍安藤氏へとつながる。「東日流」とは東へ日本が流れるという、安日彦らが地名(日本)を津軽へ持ってきたことに由来する当て字ではないか。『新唐書』日本伝に見える、「日本は乃ち小国、倭(九州王朝)のあわすところとなる、故に(大和朝廷は)その号を冒せり」という記事もこの天孫降臨事件を述べたものではないか。一世紀から七世紀まで存続した倭国(九州王朝)は、北部九州に先住した「日本」を侵略した。そして八世紀以後、倭にとってかわっ
8、た大和朝廷が古く由緒ある日本という国号を使用したと、近畿天皇家の使者は中国側に述べたのであろう。そのことが、「あるいは云う」として『新唐書』に記された。『東日流外三郡誌』に残された伝承と『新唐
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